パピヨンの部屋 - Welcome to Papillon's room
 
                 
 
不思議の女に
 
                                
一 かめの水
 
 
 
二 ありえない話
 
 
三 「鷲」という喫茶店
 
 
四 虚構のわな  
 
 
五 時計台の下
 
 
六 熱病
 
 
七 魔性の虜
 
 
八 線上の私
 
 
九 思い出
 
 
十 幻想
 
 
十一 出会い
 
 
十二 リバーサイド
 
 
十三 黄色は幸福の色
 
 
十四 夕暮れ
 
 
十五 遊歩道
 
 
十六 覚醒
 
 
十七 深刻病
 
 
十八 自由業
 
十九 命令
 
 
二十 休暇
 
 
二十一 輝く日
 
 
二十二 実現の美
 
 
二十三 底の流れ
 
 
二十四 執着
 
 
二十五 無人駅
 
 
二十六 ジャスト フォー ユー
 
 
二十七 観覧車
 
 
一 かめの水
 なみなみと湛えられた水は、わずかな揺れでもかめのふちをなめようとするものだ。
 その一滴たりともこぼすまいというように暮している私がいた。自分のかめの水さえ背負いきれずに。
 独身でありながら母。働きながらアウトサイダー。八方美人の人嫌い。私を滅ぼすのに力は要らない。針の先ほどの優しさ、それがあれば足りてしまう。
 
 
二 ありえない話
 鷲は、その鋭い目で獲物を追う。見入られたら、もう逃れる方法はないといわれる。
 この話は、ある小説の世界にのめりこんだ私が見た幻と言えばよいのだろうか。作者の虚構のわなに見事かかった、という話である。そのわなにかかる人はまれであった。
 それだけに、わなの主はゆっくり楽しもうとする嗜虐の好みが湧いたにちがいない。
 
 
三 「鷲」という喫茶店
 歯を抜く前の何ともいえない気分。
 「さあ、どちらの歯から抜きましょうかねぇ」白い大きなマスクの後ろから。くぐもった声が聞こえる。私はどっちでも同じことだとあきらめて、右の頬を指した。
 「全部で三本抜きますから、この夏はずっと通ってもらいますよ。」
 あぁ、長い夏になりそうだ。こんな罰があたるほど、何を、悪いことを、したのだろう。
 通りの喧騒を遮断した窓ガラスの向こうに樹木が見えている。たしか桐だったろうか・・・
 (あの樹皮のまだらは一種の文様みたいだ)
 とてつもなく痛い抜歯だった。
 我慢が切れて涙が溢れ出た。お礼を言って、磨き込んだ階段をすべらないよう、そろりそろり降りる。
 自転車が私を待っている。
 傷だらけで軋んだ音をたてながら、毎日私を運んでくれる優しい奴。落ち込んだ状態ではこんなものにさえ同病者のような連帯感を感じる。
 麻酔が切れてきた。
 今まで異物のようだった顎が、痛みを連れて戻ってきた。自転車を走らせると、道のわずかなくぼみが振動を伝え激痛となる。いよよ沈む夕日にめまいを起こしそうだ。
 左に曲がると細い道にでる。
 これは吉田神社の参道へと続いている。右にはK大学の石垣が、世間から隔絶するようにそびえているし、左には民家があり、窓から煮炊き物の匂いが流れてくる。 
 「鷲」と書いた看板があった。
 私は民家に隠れるように廃業中の喫茶店があるのを見つけた。薄汚れたカーテンは店が閉じられてからの多くの時間を物語っている。誰も買い手がつかないのだろう。ドアに配達された新聞が挟んであり、それがずり落ちて地面に散らばっている。読まれないまま黄色くなった事件の数々。囃される世界のどんな事件より抜いた歯のことが私には大事だった。
 こんな最悪の状態で「鷲」という名前を見たとたん、私は迷宮に入り込んでしまったのだ。
 
 
四 虚構のわな
 『黒鷲屋』があの小説の舞台だった。
 ドイツの居酒屋。
 酒の匂いでむんとする、ざわめいた処で主人公はヘルミーネという不思議な女に会った。店の名前で『鷲』というのはそんなにあるはずがない・・・ますます妄想が頭にからみついてきた。私は家に帰って、痛む首筋に氷を当て、ベッドに横たわった。何遍読んでもヘルミーネは私にとって永遠の謎であった。次の朝、本を探した。訳本が三冊、原書が一冊あった。まだ字を読む気がしなかったので、終日ドイツ語版の表紙の青い絵を眺めた。ひとつひとつの言葉が浮かぶ。
 「これで死ねるわ」と剃刀。
 「これで自分を見たら」と鏡。
 ヘルミーネの低い声。
 
 
五 時計台の下
 擦り減った石床の廊下は暗くて長い。
K大学の時計台の下は二階建の事務局になっている。一階の廊下は、学生も時折授業料を払いに来るくらいで、ほとんど人影はない。片端の出口から今日の太陽が差し込もうとするのだが容易に入れはしない。
 夏でもひんやりとした廊下にいると、かつてはここでヘルメット姿の学生が陣取っていたことさえ夢のようだ。眼前の敵、その権威の実体は一体何だったんだろう。今でも『何か』があって、それが私に覆いかぶさってくるようだ。
 私は十七歳の春、職員採用の面接でこの廊下を初めて歩いたのだ。以来二十年があっという間に過ぎ去っていった。
 
 
六 熱病
 あの日から、一字一句も見逃さず、飲み干すようにヘルミーネの言葉を読んだ。ただでさえ暑い夏。一週間毎に抜歯という業苦の中で、私は原書でヘルミーネの話す部分にマーカーを引いた。そうして彼女への思いが心を占めるようになってきた。
 私はヘルミーネという架空の人物に恋をしてしまったのだ。いったいこれはどういうことなのか自分でも説明がつかない。
 たった一人の時間(それはほんの数分の時もある!)にヘルミーネの言葉をたどるだけで、頑なな心が解き放たれて、みずみずしさを取り戻せるのだ。
 男女両性を合わせ持つヘルミーネは、いぶかる私に冷笑で答える。どちらかの性にきめることなど馬鹿げていると思うまで、私は日が経つにつれて、Hを狂おしいほど好きになった、と告白してもよい。昔から女性の優しさの極みにかいまみせる魔性が好きだった。冷たく、しかも優しく惹きつける女性に憧れていた。
 それから私は、まるで彫刻するようにヘルミーネの面影を心に刻み込んだ。その美しさは胸を詰まらせるに十分だった。
 
 
七 魔性の虜
 恋というものは若人だけの特権であると信じていた私であった。
 この年になって初めてそれが嘘だと分かった。あなたの気づかないうちにひっそりとかの人は来て、もう死に絶えたはずの恋心にかすかな生気を灯して行くかもしれない。
 面と自分に向かっている存在があるという誇らしげな気持は、昔とまったく変わらない。日常に練り込まれてすっかりと鈍っていた私に、まだ愛する力が残されていたとは?
 もうこうなると他のことは一切考えられない。完全に陥ってしまったのだ。
 ヘルミーネは、心を裂く切っ先のようなまなざしで、私を見つめる。
 そうかと思うと、この上もなくやさしい表情で微笑んでいる。
 もうすでにその魔性の虜となってしまった私だった。
 
 
八 線上の私
 めったに遠出をしない私は、仕事先と家を結んだ線上にいつも居る。
 別に不満はない。
 強いて充実を求めるほど気力も備えていないので、その線上を往復するばかりである。
 最低の状態の時には、たったひとりの友に手紙を書くことにしている。するとすぐに電話がかかってくる。
 「どうしたん。何かあったん?大丈夫?」 
 私はその声だけで救われる。
 「たまたまバイオリズムがどん底であんな調子になってしまったん。ごめんね。」
 この友あってこそ世に繋がれている自分だ。
 この変な出来事を上手く説明し、わかってもらおうと思ったがでいなかった。しても無駄だったろう。彼女の仕事はカウンセラーではないのだから。
 余りに生活が目まぐるしいと、ふっと隠れ家が欲しくなる。
 どの瞬間にも、はめ板があり、それを踏み抜かないように神経を酷使している自分が苦しくなる。
 何か思い切ってしろ、と押されるようだ。
 でも、何ができるだろう。
 わたしにとってこの生活が一義であり、それは平板なものにすぎない。洋服やスカーフを替えなければ、昨日と今日との区別すらつかないのだ。
 子供のこと、親のこと、仕事のこと、家のこと、お金のこと、考えることは山ほどある。
 
 
 考えるのが怖い時は、早く寝ることにしている・・・
 
 
九 思い出
 本の世界は少女のころから現実の世界より近しいものだった。
そんな私も大きくなって本当の恋をし、さまざまな人に出会った。同じ詩が好きで、その輪につながれた人、同じ理想に燃える人もあった。思い出は今の私を救うには余りに弱すぎる。
 
 
十 幻想
 灼熱の夜、幻にHを見た。
 
 
十一 出会い
 ふいに彼女は私の前に現れた。
 私は彼女を知りたいと思う以上に、私がいることを知ってほしいと思った。幻覚にせよ、現実にせよ、そんなことは問題ではなかった。
 そして、あつかましくも愛の成就を望んでしまったのだ。
 愛における成就!
「彼女を私に恋させること」
 その時点で私の恋は終わる。
 誰が現実の人を恋せよというのか、誰が異性を恋せよというのか。
 私の若い日の恋は、ひたすら心の中にしまいこみ、自ら癒したのだ。
 もうあのなまなましい葛藤には拒否反応を起こしそうだ。たとえ清しいものであっても、軽妙なものであっても。
 それは臆病からではない。諦めたからではない。自分を知りすぎてしまったから。
 
 
十二 リバーサイド
 ヘルミーネが来た。
 薄紫色に暮れなずむ橋のたもとに立っていた。そこには幾分古い喫茶店があった、「リバーサイド」と言う名で、ガラス張りのバルコニーが河原に乗り出すようにあった。白い壁には行儀よくラベンダーの鉢植えが並んでいる落ち着いた雰囲気の店だった。
 そこに彼女はきまって夕暮れに来た。
 いつも一人で窓際に座って物思いに耽っているのだった。初めて声をかけるのにためらう私は一本の黄色いバラを用意した。
 店の主人は快くこの演出を引き受けてくれ、良く磨いたグラスに生けてカードをその下に置いてくれたのだった。
 
 
 「あなたは夕暮れが好きですか?」 
           
 
 これは私とヘルミーネがひとつの思いに結ばれるかどうかの賭けであった、 次の日、私はその席と少し離れたところに座ってヘルミーネに会釈をした。
 やはりヘルミーネは立ち上がり私の席へ近づいてきた。彼女がどんな良い服装の好みを持っていたかを知ってほしい。やわらかい素材のブルーのワンピースに白いセカンドバックを持っていた。
 小説のままに、そのまなざしは美しく、謎めいていた。鳶色の瞳は、まるで心の奥まで見る眼力があるかのように、ある光を湛えていた。それはまるで少年のように、屈折しない心にのみ見いだせる輝きがあった。横顔はその輪郭を指でたどりたいほど端正だった。神が美しく造りたもうた人間!そこにあるのは、彼女自身さえ知らない魅力なのだった。
 いつしかわたしは彼女に敬語で話していた。
 
 
十三 黄色は幸福の色
 ヘルミーネは私を知っていると言う。
 レモネードの酸味が強いと顔をしかめながら話し始める。
「あなたはいつも今頃ここを通るのね。 
 ひとりが好きなの?」
 私は痛い所を突かれて答えに困った。
「べつにそういうわけではないのですが、
 気がつくとなぜかそうなんです。」
 口下手な私。
 でも話は彼女が上手に紡いでくれた。
「そう、私もよく分かるわ。」
 ヘルミーネが目の前にいる!何を話せばいいのか。
 彼女の周りには花香水の霧みたいなアトモスフェアがあって、とても同じ人間とは思えない高尚さがただよっていた。
 表情はやや硬い。くちびるのわずかな動きで笑みをたたえている。
「このバラをありがとう。
 とてもうれしかったわ。」
「本当ですか?良かった・・・」
「なぜ黄色を選んだの?」
「あなたに似合うと思ったからなんです。」
 その時だった。彼女は幾分抑えた口調で私に言った。
「そう、黄色は生きる強い意志を表すのよ。あなたの願いなのね、きっと。」
 私は、深層の心理はわからない。いつも表面を追って生きているからだ。それだけに、当たっているかもしれない、と思った。
 ヘルミーネは綺麗に話した。音楽的な語尾には気遣いが込められている。仕草も上品で、手のちょっとした表情にも魅力があった、
「もしよければ、あなたのこと教えてくださいませんか。
 いつもここに座っておられましたね。
 まるで何かを待つように・・・
 何かを待っていたのですか?」
 
 
十四 夕暮れ
「あなたは夕暮れが好き?」
 ヘルミーネは、低い声だったけれど、はっきりと問いかけてきた。
 私は黙っていた。最初、あのカードに書いたことだ。返ってくる答えが不安だった。
「私は夕暮れが嫌いなの。」
と、彼女は言った。続けて、
「この時間に人は買い物や、子供の迎えや、仕事帰りでごった返すから、私はその波が引くまでここで待つのよ。」
 私も若いころはそう思っていた。でもそうは言っていられないのが現実だ。買い物にいつも走りまわっている。
「ヘルミーネさん、私は夕暮れを眺めている暇がないのです。悲しいことですが、余裕がないのです。」
 そしてもっと彼女自身のことが聞きたいとせがんだ。
「別に話すこともないわ。聞けばきっと幻滅よ。好きなことをして暮らしているの。縛られるのはいやだから、勤めてはいないわ。でも食べるために一部の時間は使っているわ。しかもみんなの寝ているときにね。あなたと生活は多分逆よ。」
 逆の生活!私が無防備に眠っている間に彼女は仕事をする。彼女の昼間の睡眠に比べて自分の眠りを恥じた。彼女の充電のような眠りに比べ、私のそれは怠惰だった。
「私はそんな時間を避けて、静かな所へ引っ込むの。
 誰も待つ人はいないし、別に急ぐこともないしね。
 時間はわたしだけのものなの。」
ユラユラと光を受けて輝く川面を見ている横顔は堅い表情だった。
 そして突き放すように私にこう言った。
「でもあなたは自分の幸せを分かっていないようね。」
 どういう意味だろう。そう言えば、ここのところ口に出るのは不服ばかりだ。財布が空腹になると元気がなくなる。
 子供の成長は唯一の生きがいだが、いつか迷惑がられる日もくるだろう。
 私は自分を、確かに、見失っている。
「私、あなたを・・・」
 愛するという言葉も、好きだという言葉も当たっていなかった。どんな言葉があったのだろう。
「いいのよ、無理しなくっても。
 あなたの気持は分っているの。
 私が不思議なのね。そして確かめたい。そうでしょ。幻覚かどうか知りたいのね。」
 私の話を聞く時の彼女の目は、吸い込むような深みがあった。
 そして話す時には、私を射るように見た。時折、私ではなく、遙かな彼方を見やることもあった。それは彼女が心の声を聴いている時だった。
 このように見つめながら話すという喜びをいつから忘れていた私だろう。毎日、風のような無責任な会話で済ませているのだ。
 私はこんな心の奥にくいいる会話を求めていた。それもお互いに望みあって・・・
 彼女は微笑んだ。ジョークは上手で穿っていた。それは決して灰汁の強いものではなかった。
「あの小説は、魔法がかけてあるのよ。
 たいていの人はそれをも気づかない。私に恋した人は、分かってくるわ。」
「それはどういうことなんですか?」
「今にわかるわ」
 かすかに彼女は笑った。
 私はその氷のような冷たさに背筋がゾクッとした。
「ちょっとごめんなさい」
 セカンドバックから何かを取り出した。
(まさか、剃刀では?)
 銀色のコンパクトには青緑の蝶の羽根が嵌め込んであった。
 彼女はさりげなくパフで化粧直しをし、パチンと閉めた。
 私をおかしいと思ったのか、尋ねた。
「いいえ、別に」、と私。
 剃刀。
 小説ではいつも持ち歩いているといった。主人公は絶望という巨大な怪物が睡眠薬と麻薬で手に負えなくなったとき、剃刀を手にしたのだ。
「私も『鷲』という店を見たんです。」
「そう、それで?」
「何か不思議な気持ちになったのを覚えています。」
「私をどう思って?」
「とっても優しい人だと思いました。」
「それだけじゃないわね。」
「ええ、高くて届かない人だと・・・」
「私はあなたとこうして話していてよ。」
「でもすぐに消えてしまうのでしょう?」
 わたしは瞼の奥が熱くなってくるのを感じた。
 嬉しさと、寂しさが入り混じった。
 
 
十五 遊歩道
 すでに辺りは暗くなっていた。
 遊歩道を水銀灯が青く照らしていた。ヘルミーネと並んで歩くのは、頼りない感じはするものの幸福だった。ヘルミーネは女性でありながら、それを匂わせず、その均整のとれた肢体をさらりと衣装で包み、美しく歩いた。
 自信がもたらす最良の表現、美しい歩行だった。
「この道は好きなの。
 あなた、私が悩んだりしないと思っているの?」
 急に問われると困ってしまう。私の歩く速さに合わせているのが苦痛となってくる。こうしている間も彼女は退屈だのだろう、と気にかかった。
「私、あなたのことは本で良く知っています。あなたはハリーの分身で、パブロもそうなのでしょう?」
「分かったのね、やっと。
 別に謎でも何でもないでしょ?」
「・・・」
「でも、あなたも苦しい道を選んだものね。」
「どういうことでしょうか?」
「自分を分裂させることを知った人は、いずれ私のようになるのよ。」
「それは願ってもないことです。」
「いえ、それはだめ。」
「あなたは私を救世主のように錯覚しているのね。私はハリーに鏡を見せてあがただけよ。」
「私は分裂せるほどのものを持っていないのです。平らで薄っぺらい人間です。だけど同じ故郷へ誘って欲しいんです。」
「いいわ。みんな兄弟なのよ。特別な覚悟も要らないし、区別もないわ。簡単なこと、ただ望めばいいの。」
 
 
ヘルミーネは立ち止って、私の顔を覗き込んでいった。
「毎日疲れているのね。
 すぐ分かったわ。そして私に助けを求めている。でも言っておくけで、それは無理よ。誰も人は助けてあげられないの。できるのは自分だけ、自分しかないのよ。
 もう時間だけど、いつかまた会えるわ。」
 一気に話すヘルミーネ。
 これ以上話そうとしても、言葉は喉の奥でちぎれて、まとまらなかった。
 茫然と立ち尽くす私。頭の芯から快い痺れ。
 
 
十六 覚醒
 二本目の歯は、案外簡単に抜けた。
 夏休みは休暇の日も五時にはここへ来なければならないのだ。
 ソ連の崩壊という歴史的な事件が夕刊を賑わしている。
 冷静至極。
 私は何気ない顔をして帳簿をつけている。
 
 
十七 深刻病
 おそらくヘルミーネは私よりずいぶん年下である。時折の笑顔は花が咲きこぼれるようであったし、うなじから肩にかけてのやさしい曲線は、かすかに息づいていた。
 たしかに同性から見ても、その容姿は非の打ちどころがなかった。
 彼女は、どこからともなく現れ、私と時間を共にした。
 ある日のこと、めずらしく友人を連れてきた。インド料理を食べに行こうと誘ってくれたのである。
 彼は陽気な男性たった。意志の強そうな眉に、穏やかな目。知的な唇を具えていた。店の中では、彼はひときわ大きな声で笑うので、周りはみなシンとなった。
 彼はインドを旅したことがあると言っていた。向こうではすべての価値が失われ、無の中に生の息吹を受けて喜ぶのだと言った。料理にも詳しく、オーダーはすべて彼まかせだった。
 ヘルミーネは、そのようすをさらりと眺め、会話を軽い相槌で思いのままに操縦していた。
 タゴールの話になった。
「言葉ってすごいですね。詩の言葉に頭を殴られるように感じるときがあるのです・・・」と私が言うと、ヘルミーネは怒ったように言った。
「詩人は言葉を使う魔術師よ。
 それが普通の言葉でも、心に響くのよ。」
 そうだ。
 やっと今までの謎に光が射してきた。ハリーは強い心の持ち主でなく、孤独な詩人だったんだ。
 好きになれない世間に揉まれ、傷ついて、あてもなくさまよっていたのだ。
 そんな魂の行き先をヘルミーネは示してあげたのだ。
 
 
 インド人が笑った。人懐っこい笑顔だった。砂が口に入って食事の味どころではなかった話や、旅の途中の話で、皆愉しんだ。
 こうして、なにもかも難しく考えずにはいられない私の深刻病が、薄皮をめくるように治ってくるのを感じた。 
 テーブルにインド製のたばこと薄荷茶が配られた。その店は内装といい、音楽といい、無気味なほど本格的だった。まるでインドにいるような錯覚さえ覚えた。
 調理場からカウンターごしに、インド人のコックが時折笑顔をのぞかせ、私たちの食べようをうかがっていた。
 エビや鶏肉のピリピリしたスパイス味は、絶妙に薄荷茶と似合っていた。
 手数のこんだ料理のいろいろは、満ち足りた気分にさせてくれた。
 
 
十八 自由業
 夜も更けた。
 彼らは、これから夜通し楽しむのだと言っていた。ふたりとも家庭生活とは無縁の様子だった。自分の好きなように生きる。誰の迷惑はかけない。強気はこんなところから出ているのだ。
 私は、そんな生き方は危ないけれど、うらやましいと思った。
 自分と引き換え、何と伸び伸びしていることだろう。
 彼の仕事はどうやら写真家らしい。彼は『箱』という言葉をよく口にした。
それはカメラだったのだ。
「仕事なんて、命令されても出来はしない。」
 やわらかで、しかも弾力のある声が言い切った。
 ヘルミーネはじっと彼の目をみていた。ヘルミーネはこれからは徹夜で楽しむのだという。
 私のような所帯持ちには想像のつかない不夜城のような世界があるらしい。
 でも彼らの行く手にはネオンもなく暗闇が待ち受けている。
 どこで?
 本当に?
 そんな心配は無用だった。私はただ夕食を待つ子供のもとへ早く帰ればよいのだ。そして明日の仕事のために、休まなければならない。
 事務の道具も、そろばんが電卓に替わり、パソコンに替わる。
 そのたびに悪い頭を悩ませて、どうにかこうにかやっている。めまぐるしい変わり方についていけない・・・
 私は公の仕事で、上からの命令系統の末端にいる。歯車の間でつつがなく日々を送っている。感性の必要ない仕事。感情はかえって邪魔をする仕事。
 すると、私の耳にヘルミーネの声が聞こえた。
「お金なら心配ないわ。どんなことでもやってみるのよ。生きようとすればどんなことでもできるのよ。まず、仕事を楽しむの。それでもあなたの深刻病がすすむようだったら、切り離すのよ。」
 それは逃げることだと言いたかったが声にならなかった。
 たしかに一生この机にへばりついて老いていくのかと思えば堪えられない。仕事を楽しむ?どのようにして?
 ヘルミーネはたたみかけるように言った。」
「自分の世界を持つのよ。
 誰にも入れないところで、自分を解いてやるの。
 あなたなら自分を助けられるわ」
 ヘルミーネの声は快い音楽のようで、私はその言葉の余韻を求めた。
 彼女にならいくらでも叱られたい。そして許しを乞いたい。
 
 
十九 命令
 ヘルミーネは私に一日だけ仕事を休むように勧めた。語尾の抑揚で命令だと分かった。
 私は熱を出しても休んだことがない。余程、起きられないくらいだと休むが、滅多にない。無理をしているのではなく、生活のリズムがあって、それに従っていると安心なのだ。
 
 
二十 休暇
 私はヘルミーネの言うとおり、職場に休みを申し出た。滅多にないことなので「どうぞお休みなさってください。」とのありがたいお言葉。
 子供は学校に元気よく行ってしまった。いつもなら、買い物、掃除という雑用で一日が終わる。
 でも今日は違った。ヘルミーネと会えるのだった。(十時にリバーサイドで)
 この約束は少女のように私を紅潮させた。時計を見ると、九時五十分。
(みんな机で電話の応対に忙しいころだ。)と職場の方向を見やってしまう。
 
 
二十一 輝く日
 特別の日がある。その日は輝いている。景色も色彩を帯びている。
 そんな日が過去に何回かあった。何気なく見過ごしているもの、すべてが愛おしいと思えた。
 
 
 彼女はリバーサイドでなく、川面を見下ろして立っていた。
 「ヘルミーネさん、やはり来てしまいました。せっかくの休みもすぐに時間はたってしまいますが。」
「そんな言い方をするのはやめたほうがよいわ。
 時間をどう使うかはあなたの腕しだい。あなたはあまりにも下手だったわけ。仕事はもちろん大事でしょうが、もっと大事なものがあるわ。それはあなた自身であること。」
 
 
 私たちは川上へと歩き出した。
 風が心地よく吹き抜けてゆく。
 彼女は、今日は藍色の染付模様のカッターシャツにジーンズをはいていた。腰は思ったより細く、女性らしさを感じないシルエットだった。
 
 
二十二 実現の美
「ヘルミーネさん、あなたを案内させてくださいね。
 まだ秘密だけれど、きっと好きになってもらえると思うのですが。」
 私は未来を感じさせる建築を見るのが好きだった。外観ができあがってくると、早く中が見たくてうずうずするのだった。いくつか気にいっているビルがあった、ヘルミーネはこれを見てどう思うだろうかとワクワクしてきた。
 ヘルミーネとあるビルの前に立った。
「これ見て、素敵でしょう。ラフデッサンがこんな形になるなんて・・・今度生まれ変わったら建築の仕事をしたいわ。」
 私たちはすでに営業をしている店の中へとはいっていった。彼女は吹き抜けのロビーの真ん中に立って上を見上げていた。広いロビーは円形劇場のように見える。穏やかに曲がる階段が配されている。
 ステンレス張りの壁は、四角柱の鏡のによって無限の空間を開いていた。エレベーターで四十階まで上がれば、レストラン「遊天」がある。
 厚いガラスに遮られて風の音もしない。上にいくほど人気がなくなる。生活の場としてはどうなのだろう。今までにない空の青さと、芝生に緑が目にしみる。
 エレベータで下に降りてくると、一階は何かのフェアで、人がぶつかってくるほどだった。私はヘルミーネと腕を組んだ。
「この観葉植物は本物じゃないわね」とヘルミーネ。思ったより喜んでいないのが気になった。
 彼女は美に酔わない。私のように逆上せ上がらない。
「これを見て喜ぶあなたは幸せね。作った人もきっと喜ぶわ。」
 
 
私は少し不服だった。こんなはずではなかった。もっと見せたい建物があったのだ。私は弁明した。
「私はこれを見たとき思ったんです。これは冒険であり、未来への手紙なんだと。絵も要らないし、装飾も要らないし・・・」
 ヘルミーネは束ねた髪をほどき、手早く結い直して口を開いた。
「木は温かいわ。そして石さえも。
 人が凭れかかりたくなる、そんな素材が人を入れる器だと思うわ。これはビジネスの器ね。非情なものの器だわ。」
「でも上手にすれば住めますよ」
 ヘルミーネは顔をしかめた。
「金属も使いようね。これは少し使いすぎね。」
 わたしは無口になって店を出た。時計は一時を回っていた。
「今度は私が連れていくわ。」と彼女は悪戯っぽく笑った。
 
 
二十三 底の流れ
 好きな人と歩くのはどれほど楽しいことだろう。疲れもしないはずだ。ヘルミーネは歩きながらいろいろ話してくれた。
「あなたは自分の未来を切り開く力を持っているわ。」
 根が正直である私は、褒めてもらったのだとよろこんだ。
 でも違う。
「たしかに、はっとする驚きはあるわね。それで恋をしてしまったのよ。
 私は何か欠けていると思うの。
 何か流れの上を滑っているような気がするの。
 もっと深い底の流れは緩やかよ。」
 ヘルミーネに喜んでもらえなかったことが誤算だった。
「でもあなたの一番すてきな部分は分ったわ。」
 その言葉で気を取り直した。
 
 
二十四 執着
 最後の抜歯が明日になった。神経を抜くことの方が辛いので、耐える力が強くなった。
 この小説への執着が強い。年をとった分、身に迫ってくる。心身を削って書かれた小説はそのように読まなければ・・・待合室での読書は続く。
 
 過ぎゆく日は、私にとってあまりにも短すぎる。
 猶予のない切迫した時間が私を苛立たせる。
 水はけの悪い暮らしが続いている。
 私の内におぼろげに不安が芽生える。墨を流したように、それは広がる。
 人と比べたことはないが、ずいぶんと下手な生き方。もう踏み出してしまった一歩。次の歩を運ぶのにどうしてためらいが必要だろう。
 私の一生はまだ量れない。
 奇抜な花を咲かせるかもしれないし、自分と決闘するかもしれない。負ければひっそりと消えていくのだ。
 
 
 この小説に浸ることが、愉しみから後ろめたい悪事に変わった。背徳者のように、背中に視線を感じながら、仕事中にポケットの中で私を待っている。本の重みを感じている。
 読む時間もない、でも心が安らぐ。
 やっと床についたとき、その本を読もうとするが、瞼は重く自然に閉じようとする。それもつかのま、数行も読まないのに、枕もとに落としてしまう。
 清貧を洗う暮らしの、ささやかな楽しみの術すら手から滑り落ちていく。
 可哀そうに思ったのか、私の夢の中にヘルミーネの幻が今日も佇む。
「つまらないことを考えているのね。早くいらっしゃい。」
 ヘルミーネはのろのろと用意する私を急かせる。私は嬉しくてどうしてよいのか分らない。少し遠出をしようと言うのだ。要らないものまで、バッグに入れている。
 行先はヘルミーネしかしらない。着くまでの楽しみだという。
 
 
「あなたの心は矯正が必要ね。大分
、歪んでしまってる。あなたはそれを何か欠けていると思っているのね。でも違う。欠けてはいない。今ならまだ直るわ。」
 まるで、カイロ・プラックティスのような比喩!どこがどう悪いのか、皆目見当がつかない私。
「でも、いつか会えなくなってしまうのでしょう?私が愛する人はみんな遠ざかってしまうのです。あなたもいつか急にいなくなってしまうのですね。」
「それはあなた次第よ。あなたに愛と距離の関係を講義しなければならないなんて。一体何を読んできたの?もう一度『運命の塩』の個所を読みなさい。
 
 
二十五 無人駅
 ヘルミーネと電車に乗った。
 自動運転で、駅のプラットフォームには狂いなく止まる。静かな車内で合成音声のアナウンスが次の駅を告げる。
 港には埋め立てた広大な敷地があり、周回する路線は大きなループを描いている。事故の心配はないという。
 ヘルミーネは次第に大きく見える海を指差した。
「今日は入船はないらしいわ。」
 この港では、外国航路からの到着を入船といい、出港を出船といって新聞に知らせが載るという。
 駅に着いた。売店も広告もない構内は整然とし、係員はひとりもいない。改札の必要もないという。
 ヘルミーネは慣れた足取りで進んでいく。期待と緊張で、私は喉がカラカラに乾いていた。
 
 
二十六 ジャスト・フォー・ユー
 駅を出ると、だだっぴろい広場だった。ここはかつて万国博覧会が開かれ賑わったところだ。記録的な入場者数。イベントは花火のように華やかで、はかない夢のようにみえた。
 今はアスファルト道路がまっすぐに伸び、ゲートへ続いている。
「この先には遊園地があるのよ。」
ヘルミーネは私の手を取って、誘った。ゲートは博覧会があったという唯一の証拠のように寂しく両手を広げていた。平日なので人は少なかった。
 老夫婦が幼児を遊ばせていたり、学生たちがたむろしていた。
 
 
 正面の広場は、三差路となっていた。まっすぐ行けば海の見える丘、右は異国の丘、左は遊びの丘。
 芝生を素足で歩くと、潮風が私の持ち物を飛ばした。迷子の子犬を真中に人垣ができていた。みんな穏やかな表情をしているのが変だった。
 ヘルミーネは座って遥かな先を見ながら私に言った。
「あなたの世界はね、頭の中にだけあるんだわ。空想ではすぐに行き詰るのよ。分かって?心を楽にしてやらなければ。」
 ベニー・グッドマンの音楽が園内に流れてきた。
「グッド・バイという曲ね。」
見るとヘルミーネはかすかにリズムをとっている。
「どう、手足が軽くなったように感じなくて?さっきと歩き方が違ってよ。あの海を忘れないでね。」
 
 
 
 
その遊園地のメリーゴーランドは、けばけばしい色でなく、セピアをかけた写真のようにトーンを落としていた。白馬も王冠を頂いた馬車も、ゆっくりと上下していた。
「次はこれよ。これに乗るの。」
 私は回転しているものは、大人になってから、特に苦手としていた。
「これはちょっと・・・」
と手で断ったが、ヘルミーネは後に引かなかった。
「みんなこの国では遠慮しないの。
 進んで楽しむのよ。
 みんなの幸福そうな顔をみてごらん。木馬も喜んでいるわ。」
 とうとう私まで乗るはめになった。幼い時、これほど憧れたものはなかった。回っている間の揚々とした気分、みんなが自分を見ているような晴れがましさ。
 ヘルミーネと私の木馬は交互に上下した。
 そのうち、幼年時代に戻ってしまい。母が下から目を細めて見ていた。
 前を通るたびに手を振ってくれる。あの至福の時間は、何と短かったことだろう。
 父は生まれたときからいなかった。
 ただ母のそばにいれば安心だった。
 素直だった私。母の自慢だった私。
 その芽は、いつのまにか干からびて、どんな枝も伸ばさなかった。
 
 
 「異国の町」という一角があった。ドイツ風の建物の通り、アメリカンウエスタン通り、南仏風の通り、それぞれが現地t錯覚を起こさせるほど、巧妙に!造作されていた。
「私は外国へ行ってみたかったわ」
本心を私は言ってみた。
「誰でも海外旅行くらいできるわ。
 でも何ていうか似つかわしくないの。その土地が迎えてくれるほどに入っていけないの。」
「それは言葉のことですか?」
「あなたは完全に勘違いをしているわ。何回も言わせるのね。言葉は心だって。心がないのに、なにが言葉よ。Non sense!」
 
 異国の町は、酒場や遊技場を備えていた。ヘルミーネはすぐに何人かの友人を作った。私は、案の定、友達を作ろうという気持ちもなく、言葉もかけなかった。
 ヘルミーネの強い口調に、私は気落ちした。そのような特技を持っていればと願ったが、そう言うと余計に叱られそうだった。
 
 
 異国の町の通りでは自由参加のパレードがあった、
 その中に入りたい人は好きなだけ歩くことができた。欲しい人には無料で真っ白なプラカードが渡された。そこにメッセージを書き、持っていてもいいのだった。
 ヘルミーネは入ろうと誘った。プラカードは二枚あった。
 彼女は「Do anything as you wish.(何でも思うままに行おう」」
と書いた。私は「昨日までの私よさようなら。」と書いた。
 いろいろなメッセージはマイクロフィルムに収められてすべて保存されるという。ひとつはキーホルダーにして記念にくれるというので、喜んだ。
 その通りは、次第に細くなり、やがて出口になっていた。
 あのパレードの賑わいが、迷路の出口のようなあっけなさで終わるとは、とうてい信じられないことだった。平和のメッセージが一番多かったと二人は顔を見合わせた。
「それにしてもヘルミーネさんの時代は不幸な戦争でしたね。私たちの父母も時代もそうでした。」
「思い出したくないわ。そっとしておいてほしいの。」
「ごめんなさい。」
「べつにあなたのせいではないわ。」
「私はハリーのどこが気にいらなかったか、今ではわかるわ。彼は戦争を憎んでいた。でも体を張って反対をしなかった。私は撃たれた若い兵士の血で書いてほしかったの。でも、それができない彼の弱さに恋してしまった・・・
 人類で神聖な戦争なんてあるかしら。人を捨てなければ敵を殺せない。言葉は戦争を鼓舞するように使われたの。その時代にハリーは生きていたの。」
 今の平和な時代にそんなことを言われても返事に困ってしまう。戦後生まれの私には、実感がない。
「でもね、不幸な時代だったからって、同情は要らないわ。
 Im Strum nur ist das Leben shone…(波瀾に富んだ人生こそ美しい)
それはそれで価値があったの。だらだらした生活よりは。」
 
 
 季節はずれのコスモスが咲き乱れていた。茎を大きく曲げて、風に揺れながら、花びらをこぼしていた。
 内なる心を自然に表わすことの素晴らしさはこの通りで教えられた。
 それは恥ずかしいことでも、何でもなかったのだ。そんなことに無関心だと思われていた人々でさえ、誰のものでもない自分の言葉で思いを伝えていた。それを秘めていたことが、嘘のような大胆さで。
 ヘルミーネと私との間で時間が交錯した。過去のロマンと未来のビジョンは溶け合って、美しい縦糸となっていた。歩く人々と、私たちの間に文化が交錯した。それはどれも誇り高い色であり、横糸となって不思議なタペストリーを織り上げていた。
 私たちはこの異国の街で自由を謳歌していた。
 ここにいる限り、およそ籍と呼ばれるものは要らなかった。罪を犯さないという前提があるだけで、互いを縛る法もなかった。ただ、瞬時をつなぐ真実の愛を架ければ、友となり、兄弟となり、恋人となれるのだった。
 ここにはまた時計もカレンダーもなかった。
 新聞や雑誌も売られず、時事は話されなかった。時を刻まない町は、慣れない私にとって不安だった。ヘルミーネは私が活字の中毒にかかっていると注意した。そうかもしれない。そうだと納得した。これにそぐわない人々もあったが、この町の自浄作用か、去っていった。
 
 
 人だかりがしている見世物小屋があった。何を見せるのか、興味をそそられた。
 実物は見えないが、観客の表情は入口から見える。みんなの口は開き、目は驚きの極みを表していた。獣みたいな人間だという口上が長々とあった。
「うまれたときからこのかた生肉をわしづかみにして食らい、親も恐ろしくて見られないありさま。大人になってからは檻に入れておかなければ、暴れて血を見ること請け合い。からだは半分野獣、半分人間、さあ、それからあとは見てのお楽しみ。いらっしゃい、いらっしゃい、さあ、どうぞお入り、お入りぃー。」
 私は自らを狼に例えたハリーを思い出した。狼らしく生きたいという素直な欲望があるだけで、欺瞞も迎合もなかった。何と素晴らしい狼だったろう。ヘルミーネが最後に儀礼行為を施したのも、彼が正直すぎたからだ。
 ヘルミーネも私も見世物を見るだけの神経を持ち合わせていなかった。粗末な小屋が、裸電球に煌々と照らされて次の観客を待っていた。 
 私たちは黙って歩き続けた。話は途切れていた。
「ヘルミーネさんは強い方ですね。どうしてそのようになれたのですか?」「そのように見えるみたいね。でも、抱えきれないこともあるのよ。」
 彼女はそれ以上語らなかった。その沈黙は深い水の青味のようだった。
 かすかにためいきを漏らした。なめらかな肩の線がわずかに震え波打った。
 その美しい目に哀しさがよぎるのを私は見逃さなかった。
「ヘルミーネさん、何か私にできることがあったら言ってください。」
 そう言うのが精いっぱいだった。事実何の力もない。
「あなたは自分の心配をしていればいいのよ。本当のことをいうと、私はあなたとは違った苦しみを味わっているわ。私はそれを天から与えられたものだと思っているの。死なないわ・」
 ヘルミーネが初めて弱音を吐いた。
 その瞬間、私は自身の柔弱さを忘れて、気強くなった。
 好きなものを守る果敢な戦士のように。
 これまでのぎごちない生き方は色あせてみえた。そして昨日の私をすっぱりと切り落とした。
 音楽はジャスト・フォー・ユーに変わっていた。
 
 
二十七 観覧車
 ひとまわりが三十分もかかる観覧車。そのホイールは夜にはイルミネーションが綺麗だという。乗るにはちょっとしたコツが必要だった。
 この時間に私とヘルミーネはすっかりと打ち解けた。ふと不思議な気持ちになったのはなぜだろう。
 あの場末の酒場、灰色の町並み、仮面舞踏会。
(その彼女が肉体を得て私を見ている。)
(それは虚構が私にもくろんだ罠だろうか。)
 きっと私の目は焦点をうすなっていたことだろう。
 ヘルミーネはそっと私の肩に手を置いた。軽く羽根のように感じた。
 もうヘルミーネの嫌いな夕暮れが近づいていた。
 ゲートのそばのメタセコイアの樹の下で、ヘルミーネは真剣な面持ちで言った。
「いやなことばかり言ってごめんなさいね。
 暗い表情のあなたを我慢できなかったの。
 あなたは一人ぼっちだと思ってる。
 それで世間を相手に闘っていると言うのね。
 でも、それは違うわ。
 その甘さがあなたをダメにしたの。
 みんなそれ以上の苦しみを持っているわ。
 自分の幸せを分らないと、ますます不幸に落ちていくわよ。
 何を欲しがっているの。ほかに何があればいいの。
 そんなもの、どこにも無いわ。探したって無駄よ。」
 叱られているのは苦痛ではなかった。それば全部当たっていた。
 私の目をじっと見て、なおもヘルミーネは話し続けた。
「あなたは私を求めたわね。
 私を愛したばかりに、自分を投げ出してくれた。
 私は完全にあなたのものよ。
 いつもあなたの心に住んでいるわ。
 寂しがらないで・・私がいるじゃない。私たちは同じどころに行く運命よ。
 誰でも行けるところじゃないけれど、あなたなら大丈夫よ。
 せっかくここまで来たのよ。
 いつでも呼んで。きっとよ。」
 
 
 いつの間にか、夕暮れの中へ私は放り出されていた。
 ゲートを出ても、アップテンポの「グッド・バイ」がかすかに聴こえていた。
 振り向いた時、いくらさがしてもヘルミーネの姿はなかった。
 
 
二十八 夢から覚めて
 本は半ばで閉じられている。
 たしかにヘルミーネは現われて、私と語り、去っていったのだ。
 ひとり残された私は、こう思った。
(私は、愛する人が悲しい目をしているのを見ていられない。そのように、私も誰かにそう思われているのかもしれない。)
 
 
二十九 不思議の女(ひと)に
 私を救ってくれた不思議の女に 
 幸よあれ。
 泥の街に咲いてくれた花に
 幸よあれ、
 場末に舞い降りてくれた聖母に
 幸よあれ、
 あの白日夢(ゆめ)は甘やかな幻?
 それとも叱咤。
 弱さをおそれまい。
 孤独をおそれまい。
 あの女(ひと)の魔性に幻惑(まどわ)されてさまよえることこそ幸せだ、
 
 
三十 盆休み
 歯医者は盆休みで三日間行かなくてよいことになった。
 その嬉しさ!
 全治して、先生から解放宣言が出たら職場のみんなにケーキをおごろう。その日を待ち焦がれている。治療もなれて、番を待つゆとりも出てきた。
 もうあの迷夢を見なくなった。
 私も暑さのせいで頭がプッツン切れていたに違いない。私は狼になれない。もちろん虎にも虫にもどんな比喩にもなじまない。
 私はこの私でしかない。
 私の精神の切片を超音波顕微鏡で見たらどんなだろう。美しいモザイクかもしれない。もつれた糸かもしれない。
 
 
三十一 聖なるまつりごと
 
 
 仕事がたまっている。
 とにかく、伝票の山を、処理済みの山へと移し変える仕事を、今日も明日も明後日もするだけなのだ。そして電話にしがみつき、コーヒーをがぶ飲みしおかずを買って家路につくのだ。
 あと二十年はこのような日が続きそうだ。
 でもヘルミーネのおかげで、これこそが聖なるまつりごとであることに気がついた。
 これは自分自身を実現する道であって、他にはなにもないのだと。
 
三十二 バースディ・カード
 八月十八日。私の誕生日に一枚のバースディ・カードが届いた。
 HAPPY BIRTHDAY
 
 その写真を見て私はハッとした。露に濡れた、黄色のバラの花束だった。
 差出人を見ると、私のたった一人の女友達A子であった。
 彼女とはもう一年も会っていない。
 私は久しぶりに声を聴こうと、受話器を手に取った。
 
 
(完)
 
著者より
 
 
この作品は成田 恵というペンネームで「コスモス文学」に投稿、入選。
このほかに、「夕映えの彼方に」(入選)「流星譚」(新人賞)などがあります。
未発表の小説は「浄夜」「ハーフトーン」があります。
いまは「アウラ、ある天女の物語」「を書き進めています。
 
 
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