パピヨンの部屋 - Welcome to Papillon's room
 
 
 
創作の愉しみ:自作を語る  「詩の実作講座」原稿より
 
 
 はじめに きょうは一時間お時間をいただきました。この時間が長いのか短いのか、話題は尽きることがないと思いますので、できるところまでお話し、御話しきれなかったら次回に回すということで、どんどん進めさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。質問は最後のほう10分くらいを充てます。 
 
 さて、副題は「創作のよろこび」というタイトルにいたしました。これは、初めて詩を書くひと、詩を書き始めているひとが持つ素朴な疑問「なぜ詩を書き続けるのですか」に応えるものです。 詩を書くことは、子供でも可能です。じじつ、子供の作品には、素材(モチフ)、表現にすぐれているものが多く、はっとする驚きがあります。大人が陥りやすい「書き慣れ」がなく、いつも「初めてのきもち」で書くからです。 
 ここで素材について触れましょう。詩を書くとき、何について書くか。これは悩むところでもあります。タイトルを与えられれば、それについて書けばよいので比較的易しいのですが、そうでない場合、詩人はどうして詩の素材を得ているのでしょうか。ここに受講されているみなさまは、詩を何百、何千も書かれている御方ですので、いまさらわたしが云うこともありませんが、きょうはわたしが「自作を語る」ことを許されていますので、わたしの場合をお話させていただきたいと思います。 
 わたしはたいへん熱しやすく冷めやすいところがありますが、自分を離れて見ることも忘れません。しかし如何なるときにもたえず「感覚を鋭敏にする」ように努めています。「知・情・意」という言葉がありますが、そのなかでは「知」にあたる部分です。自分の外にある世界は、「知識」によって得ることとなります。自分の経験から得たものは「知恵」となります。この知識・知恵は詩の種になるからです。
 たとえば、新聞を読んでいたとします。ドキュメンタリーでクウェートの難民の話がありました。そこに難民が呟いたことば「蝶が油たまりに落ちている」と書いてあり、その場面を想像しました。それば油に蛾や蝶や虫が浮いているだけのお話ですが、わたしが決して見ることのない、しかし真実がそこにあります。そしてイマジネーションの翼が羽ばたくこととなります。クウェートの文化、歴史、地勢を調べ、石油の採掘・生産、石油とは何かまで調べます。その間はやく六カ月。そのプロセスのなかで、ようやく自分のこころのスクリーンに蝶が主人公として生まれ、演じる映画のようなシナリオができました。あとは、書くだけですので数時間で済みます。そうして出来た散文詩が「砂漠点景」です。 
 このように、わたしは詩を書く際に「覚書」を書いています。その詩が生まれた経緯、所感があれば、より理解されるだろうと思ったからです。もちろん、自由に読んでいただいてよろしいのですが、どうしてこんなことを思ったのか知りたい御方にはヒントとなると思います。しかしあくまで自分のための覚書であり、読者へ書いたものではありません。 詩は一気に書きますが、このように詩の種がこころに蒔かれてから育つまで時間がかかりますので、「ドラマティック」な散文詩は一年に数編しか書けません。これらの詩はわたしだけの愉しみとして作り、制作中に読者の存在を意識しておりません。 
 そうですね、わたしの詩にはいくつかのカテゴリーがあることを云い忘れました。既成のジャンルにあてはめられませんが、敢えて云えば    
 
散文詩  「蓮」「誘蛾灯」「花火」「砂漠点景」「トルコ素描」「マケドニア素描」など    
自由詩 「涙のワジ」「万華鏡」「桜へ」など    
 
五行詩  「稲妻」「水脈」「愛の舟」など    
 
物語詩  「さ・が・ら」「はずばんど」「豆御飯」「メーデー」など    
 
童話詩  「影子の楽しいハロウィンナイト」など があります。
 
  まだまだ「蜘蛛と蝶」「千載不磨のうた:万葉の恋・平安の恋」といった物語形式五行詩や「ぱあどれ」といった歴史物の物語詩も書き進めています。童話詩もシリーズ化しています。なぜ、これほどレンジを拡げているかというと、「生物多様性」の世界ではありませんが、あまりに一つのことに固執すると、自らが窒息するような気がするからです。内心はひとつに決めていても、試行錯誤することも大事だと思います。
 もう勝ち札、逃げ札のないとカードゲームのように、にっちもさっちもいかない創作生活は苦しさの何物でもないと察するからです。わたしにとって「創作は楽しい」ことが原点ですから、終点も楽しくありたいと思います。
 
  「蓮」は写真展を見たときの感動が詩の種になっています。誘蛾灯は、近くのコンビニの青い誘蛾灯が「パチッ」と鳴っているのを聴いて思ったこと、花火はテレビで大曲花火大会の放映があり、その大きな花火(実際の花火大会は行ったことがありません)を見た感動です。あとは旅の中での感想が種になっています。 これら偶然に得た感興を詩にすることの他、わたしはブログ読者のために、五行詩を毎日書いています。毎日書くということは、たいへんなことですが、それはまた修行でもあります。音楽家が血のにじむ努力をしたり、画家が見えない努力をするように、わたしもよりよい詩を書くための研鑚が必要だと思いました。 具体的に云えば、一生に五千編の詩を書く。これが目標です。
 これは加賀千代女が生涯に五千句を残したこと、これを真似ています。(ちなみに、亡くなった母が「悪いことは真似でもしたらあかん、良いことは真似でもせよ。」と教えてくれました。数字と云う目標は、これは良いことだと思います。というのも質は数値化できないからです。グレード8の詩、グレード1の詩など誰が云えましょう?またそんなことがあれば、詩は詩でなくなります。
何からも自由で開放されて書く行為が詩であろうと思うからです。でも五千という数字は魅惑的です。わが一生はあとどれくらいか、分からないのですが、それを達成するまでの旅に出た気分です。ちなみに毎日一編かけば十五年で到達できます。二編かけば七年。そう思えば、決して不可能な数字ではありません。何でもよいから書く。そうすれば、そのなかに、数編は良いのが混じっているかもしれません。
 ダイアモンドの原石のように、それほど良い詩ができるのは偶然に左右され希少なのです。 話を元に戻しましょう。
 
 知・情・意と最初に云いましたが、「情」についてもお話をしなければなりません。詩のモチフについてはいま述べましたが、詩のなかに「どんな思いを載せるか」、これが大切かと思います。それはどんな花を咲かせるかということでもあります。そこに「情(こころ)」がないと読者のこころを震わせることができません。自分が想うこころ、想いすぎて溢れるこころが詩となってこぼれていく、そんな気がしております。多少オーバーな表現も可。また控えめな表現もなお可。ここでは詩人のキャラクターが大きなウエイトを占めます。            
 
          ファースト・キス
 
            寒さ、          
           ではなかった。          
           あなたも          
           あたしも          
           震えていた。  
 
 これは、「わたし」ではなく「あたし」と書いたことで、十代か二十代初めと想像できます。青春早期のふたりです。この時点で、もう詩人は主人公のふたりに演じさせています。では、寒さだけでなく、なぜ震えていたのか・・・それは読者の体験をもとに読んでいただくことになります。そこで、みなさまは初めてのキス体験の「おののき」をリコールすることとなります。そして自らの世界にたゆたうことができます。「初々しい」きもち、「慣れていない」感覚、それを表現して読者の情意に響きます。  
 
 次に、「意」ということを述べましょう。ここからは詩の「ちから」ということを考えねばなりません。ふつうの「ことば」を並べた「詩」になぜ「ちから」が与えられるのでしょう。それは太昔から、また他の国でも「言霊」として畏れられていることで分かります。ことばは、人間の行いを規定するからです。「行く」といえば、わたしは「行く」ことになるのですし、「行かない」と云ってしまえば「行けません」。「行こう」と云えば、他人を誘うのです。 このようにいかに自由な詩といえども、「こころ」から離れた「ことば」には、巧みさがあれば面白い詩として成立しない訳ではありませんが、わたしには書けません。つねにわたしは「こころ」から生まれたことばを「こころ」へ届けたいと願うからです。それもできるだけ易しい表現で書きたいと願っています。           
 
          初霜        
 
        霜でさえ       
        土を起こす       
        力があるというのに-       
        わたしの言葉は       
        何をも動かせない。  
 
 この詩は、ひとつの俳句をモチフにしています。        
―霜の華 ひと息の詩は 胸あつしー 馬場移公子  
 
 ここでは、わたしの言葉の無力さを嘆いています。そして足元の霜の力を羨んでいます。わたしは、いったい何を動かそうと思っていたのでしょうか。そして動かせなかった、と結論づけたのでしょうか。いくら書いても無駄だ、というような喪失感が漂っているのに、詩集全体を見ていただければ、上昇下降という精神活動の動態の一点であることがおわかりかと思います。こんな感覚のときもあるということで、いつも意志は強く持っています。  
 
 こうして「知・情・意」とめぐってきましたが、物理学的な力のモーメントということから考えると、力の方向と大きさはわたしの詩が向かうところでもあります。なんとなく書く、書いて終わり、ということはありません。常に良いものを求めていきたいと強く思っています。  わたしの詩の一番の読者は、とりもなおさず「わたし」です。一番の批評家も「わたし」です。わたしが一番創作のよろこび、創作の過程、背景、裏話すべてを知っているからです。
 一般読者の方々は、詩の表面を読んで下さいます。きっと全てを知ってしまわれるとその楽しさに溺れてしまうと危惧します。それほど面白い逸話がひとつひとつの詩に隠されています。そんなことを想像するのもわたしの創作のよろこびと云えるかもしれません。どこまでも深く、知れば知るほど面白い詩を提供したいと思っています。 さて、ここからは創作法について語ることになりますが、いわゆる「企業秘密的」な技巧(テクニック)もご披露したいと思います。 
 
葡萄の植え付け -詩を書くわたし、その状況― 
 葡萄農家は葡萄を育てるときに、日当たりや土壌を気にします。このように詩を書く自分の状況、こころの土壌が痩せていればいい詩ができないと思っています。美味しい果実を得るには、健康な樹を育てねばなりません。こころに柔軟性を持たせることも必要かと思うのです。ひとつの観方に固執すれば、詩にも現われてきます。詩は読者の自由なイメージに負うものであり、説得するものではありません。だから伸びやかなこころで書きたいと常々思っています。               
 
      海図           
 
    波は好きに立てよ。          
    何処を見ても          
    360度          
    わたしが中心          
    自由の海図だ。 
 
 この詩は、そんなきもちを表しています。これは、なお且つ、すべての人間が持ってほしい、抑圧の社会に逼塞している人々への応援詩でもあります。そして自由の社会においても、自ら閉塞感にさいなまれている人々、ぜひ突破していただきたいという気持も含まれています。 
 
葡萄の収穫 -詩を書くことー  詩人は詩を書くのが仕事ではありますが、そればかりではありません。詩は表現活動のツールであり、あらゆる創作活動、表現活動をしている人々の創作態度、創作技術、創作テクニックも学ぶ必要があります。たとえば、音楽家は指が折れるほど練習をします。京刺繍は極細の絹糸を操ります。すべて、ことばを扱う詩人にも通じるところがあります。詩人は霊能者や宗教家、哲学者のような特別なる仕事ではなく、ひとりの表現者として捉えたほうがいいかもしれません。  詩は難しいと云われます。また詩は何を書いてもいいとも云われます。どちらも間違いではありません。では、詩とは何なのでしょうか?こんな根本的な問題を考えることも大切です。そしてわたしにとって詩とは何かと云うことで自分の方向性が決まります。自分を「宣言する」(デクレアする)ことも大事なことです。他者と一線を画し、オリジナリテイを確保することができます。
 
 いわゆる○○ワールドと云われるものです。 最後に公表について述べさせていただきます。いままでお話したすべては「わたしの内部でおこっていること」であります。しかし本として発行したり、雑誌に掲載することで詩は独立します。わたしのものであり、わたしの宝物をひとさまにお見せすることになるのです。 出版社が編集を工夫し、レイアウトや装丁といった「着物(おべべ)」を着せてもらい、女児を社会に放り出すのです。しかし自費出版ならでの楽しみ、購買欲をそそる「挑戦的なキャッチフレーズ」のように、著者の好みに合わないタイトルを強いられることもありません。著者の自然さがそのまま現われた本になります。わたしの場合は資料にもありますように、自分で配列まで決めております。プロには仕上げてもらうというかたちです。そうしてひとつの藝術作品のように愛しい本ができあがっています。自己満足と言われればそこまでですが、そんな批判も甘んじて受けられるほど幸せな本作りです。誰にも真似されない、誰も真似しない、オリジナリティをモットーにしています。 
 
 出版当時はちゃんと歩いてくれるだろうか、成長してくれるだろうか、わたしの手を離れて歩けるのだろうか、それを見届けることになります。 幸いにも書店で買ってくれた読者が手紙をくれたり、人々によく受け入れられたことを知るほど嬉しいことはありません。それが創作のよろこびの頂点と云えるかもしれません。また資料にもありますように、海外の方が詩を読んですばらしい批評を書いてくれたりすると、彼らの想像力のたくましさに感動を覚えます。 若い詩人さんには、この感動をぜひ味わってほしいと思います。 
 
 こんなお話を続けていては、きりがありませんので、ひとまずは閉じたいと思います。なぜ英語で発表するのかといったことは触れる時間がありませんでしたので、いつか機会があればお話を続けたいと思っております。ご清聴ありがとうございました。


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