パピヨンの部屋 - Welcome to Papillon's room
Critics

Critic by Laura Garagaglia

すみくらまりこの詩はもの柔らかく同時に力強い、ちょうど自然の力のように。 その要素がかもしだす親しい関係、それは日本文化のすべてに浸透し神道に由来するのだがーこの詩人の作品に現れている。水、命の根源的な精髄:川、池、湖、海、滝などすべては北斎や広重のように芸術家によって歌われている。花と鳥は俳句や短歌の偉大な伝統を継いでいる詩人の霊感の源泉となる、が自由詩にうまく取り入れることにより、より彼女の詩作にゆったりとした呼吸を与え、その韻律をあらためて認識させていく。 「蓮」という詩のなかの蓮の花たち純潔、叡智、光の象徴である。その根は、世間という、泥のなかにある。 しかし花びらと茎は空に向かっている、「光」へと(泥から生まれたというのに/すっくと立つ誇り高い御身。)蓮は定めない世間、浮世の隠喩となる、1800年代の日本:人生や世間のこと愉しむことに目覚めたこと、彼らは人生を享受することはなかったが、それは定めなくはかない命のようであったのだ。

 もうひとつの美しい詩は、死にゆく鳩に捧げられている、それは平和の象徴である、この詩のなかでまさに優先すべきものは戦争の犠牲・迫害に苦しむ多くのひとびとであるという。(おまえは悪意のえじきではない、人を恨まないでおくれ/平和の使者でありつづけておくれ。)あるいは葛飾北斎の神奈川沖波川の作品を思い起こすことができる「ペガサス」について考察ができる。わたしは数ヶ月前にミラノのパラッツォ・レアル・ギャラリーで日本の美術展を見た。北斎の波は自然の荒々しさと漁師の舟が屈しないことを表現している。それがすみくらの詩「ペガサス」になっている。神秘的な翼ある馬はオリンポスに着いてあえてベレロホンに挑んでいく、そして詩の熱狂の表象となる。詩神がいつも飲んだエリコーネ山の泉をたてがみがこえていく。ペガサスの意義ー詩人にとっての波は、詩が高くとぶ可能性として意訳されうるものであり、「いのちの海」を見て、真実の宇宙に詩の言葉を架ける。しかしそれは死の象徴とは読まないのだ。「待たれるのは/生命の海から/無窮の宇宙(そら)へ/翔ぶというペガサス。」

 すみくらまりこの詩は彼女の大地からはるかな旅もする、アフリアの砂漠「涙のワジ」、ポルトガルの「ファド」は今日もリスボンの街角でみかけるサウダージの雰囲気を再現している。

 また最新の詩集「式の二重奏」では面白いことに気がついた。すみくらの興味は、科学の世界、宇宙・数学・調和に広がっているのだ。詩から読み取るのとはかけはなれた世界へと。だから詩人と科学者の問いが自身に存在の根本的な問いを差し出すのだ:われわれは何か、われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、どう世界が動くのか、宇宙ではどうなのか?このようにすみくらまりこは詩のなかでキリスト教伝道師カルロ・スピノラー長崎で17世紀に殉教したーと日本の偉大な数学者吉田光由との友情と尊敬の関係にかたちをあたえながら物語る。
もういちど云おう。東西の数学の関係について、理性における神秘主義と信仰の相関に驚くべき思考の方法にもとづいていて、「算額」に捧げられた詩もある。-文字どおり「計算の板」であり江戸時代が数学の難問を解いた人が木の板に記し奉納する、そして神官がそれを掲げるのだ。ほかの詩では、すみくらは空に、星座に、北極星に月に目を移す。この詩人の目は、宇宙の特殊から、力をもって、詩の特権で事物の黄金の芯へと到達するのだ。  
                         ラウラ・ガラヴァリア
A Comment from Derek Ball (Ireland)
 
僕はDB、作曲家でGRの友人です。
アイルランド人ですが、いまはスコットランドに住んでいます。そこは君も知っていると思うが本州と北海道が近いくらいアイルランドに近いのです!

僕は君の「地抱く男」の本にあるいくつかの詩を読みました。英語で(なんとやっかいな言語なんでしょう!)そしてGの美しい翻訳を読みました。君も知っているように、Gは、僕が音楽で作曲する誘惑に勝てないことを知っていて、僕の前にいくつかの詩を見せました。その詩を愛しています。

僕がはっとしたのは、すっきりしたコンセプトでした。その詩はある意味で形式的、無駄がなく、焦点が合っていますし、五行に制限されています、それでも「良いとされている俳句のしきたり」からは自由になっています。そしてもっと豊かに個人の素材を駆使することが出来ています。その男の思い、女の思い、彼らの関係は---すべて理解できるし、馴染んでいけます。同様に形式的構成の奥深くではではありません、それは強い情感なのです。

Gが最初に「地抱く男」を渡してくれたのは、コンサートのリハーサルの帰り、泊まっていた兄の家からバスでダブリンへ向かうときでギネスを飲んでいました。英語の訳を読み出したとき、「背広」を読み涙が頬を伝うのが分かりました。心にずんと来たのです。いまはリタイアしたのですが、昔は背広を着て働いていたのです。いつも妻マリーの写真を見につけていました。ただちに電話をかけ、彼女に「愛している」と言いました。

僕はGに既に訳した詩にこれも加えてくれと頼みました。もちろんOKでした。僕にはあるコンセプトがあり、電子アコースティックで作曲をしています。スコアに日本語も入れたらどうかと思っています。わたしは本から12篇をスキャンしましたが、Gがくれた別の詩のオリジナルがありません。それは「夜露」と「埋み火」です。メールで頂けたら有難いです。PDFがいいです。何でもいいです。

この三者のコラボを楽しみにしています。素敵な詩をありがとう。

DB(作曲家)
 
Critique by Bujar Plloshtani (Albania)
 
すみくらまりこ――言葉を感情の表現と考えるこの詩人は叙情詩を通じて世界の嘆きを表現する一方で、愛、人間性、喜びといったものも表現している。彼女は言葉を非常に深く官能的に捉え、自然現象や物質的・精神的な事象についての考えを言葉にすることで平和や人間の存在に対して人々の意識をひきつけている。
 
彼女の言葉は人間の絶望や愛に対する欲望を率直に表現していると考えられる。詩には哲学的な側面があり、物事の見方に関して人の目をより現実的な方向へと導く性質がある。それは激しい感情の雨でもなく、深刻な絶望や希望の光といった性質のものではない。彼女の詩は愛、希望、現実、感受性、生きようとする心の縮図である。 彼女の言葉は精神的な思考の秘密に切り込む。彼女は詩を通して西洋哲学の考え方を紹介すると同時に、自身の詩の語るところの理由についても説明している。感情のタッチの秘密、月夜の感情、美しい心の歌を感じながらの眠りからの覚醒、新たな希望を抱きながら過ごす夜の、ろうそくの光に灯された詩。 
 
彼女の詩作「秘密」「月夜」「埋火(うずみび)」「京紫(むらさき)」「雪の夜」「感光(やけど)」「五月雨」「心の翳」は、自身が心の中に秘めている感情の光をあらわにしている。これらは時代を超えて、人々の生活の中で待ち受けているものである。彼女の詩作には叙情的な感情表現が流れており、これを中心として心の表現が展開されている。すみくらの詩作の本質を解釈することは我々の社会的存在を明らかにするようなもので、そこに新たな希望や人々がすでに抱いている感情が生まれる。彼女は水を愛し、また神秘的な空、冬という季節や自然のけがれなき美しさの中における生活を愛した。その美しさは彼女の5行詩の中にふんだんに表現されている。
 
彼女の素晴らしい日本詩は心の平和を表し、敏感な女性の繊細かつ深い言葉を理解する手がかりになる。 すみくらまりこは、このような愛や情熱を「京紫(むらさき)」で詠んでいる。それはこの地こそが彼女の創作の場所であり、彼女の精神的な才能が天に届く場所であるからである。この作品で彼女は喜びを表現する一方で、悲しみが溜まっている泉について詠んでいる。泉には喜びと悲しみが混在し、その状態が紫色で表現されている。これが彼女の感情の表現である。
 
神秘的な泉を詠んだ「京紫(むらさき)」では、すみくらの心の中に喜びと悲しみが混在している様子がはっきりと描かれており、この2つの色が混じりあって紫色の泉となっている。彼女の創造力により紫色に平和と喜びが与えられ、この泉は悲しげに見えながらも、愛と喜びを楽しむ人間の美徳を映し出している。京紫の泉は美しい存在でありながら、象徴としての存在として描かれているのだ。 
 
すみくらの詩作は終わりのない波紋であり、自然の対象物が印象的に登場する。また作品の中では愛が潮の満ち引きのように揺らめき、魅力的な人間主義的精神の自由な良い面が生かされた、深く感情的な言葉を体験することができる。 
 
 
原文 アルバニア語 ↓
 
 
 
Critique by Michael Finkenthal (Columbia, US)
 
 
すみくらまりこ
 
 
ここで私は一人の詩人について記したいと思う。日本の詩歌についてではない。私はまず彼女自身が書いた英語版の詩を解釈し、その解釈をもう一度英語で書き直している。内容についてはしばしば議論となるが、いつも同じフラストレーションのようなものを私が味わい終わってしまうのだ。私たち二人は片言の会話を交わし、彼女は私の質問に対して静かだがしっかりとした返答をするも、この翻訳プロセスの中で何かが欠けてしまい、原文の意味と異なってしまうことに気づかされる。つまり、日本人の心の深い構造によって形成される障壁を乗り越えるのは至難の業であるということだ。
 
 
しかしながら、英語の解釈は不完全なものになりがちだとしても、すみくらまりこの詩歌は素晴らしいと感じる。表現のシンプルさの中にも強さが感じられ、その強さとは文の中に盛り込まれた見えない力の存在である。彼女の詩歌のサブタイトルには私たちが共通して好きな詩人の作品のものがつけられていることも多く、ブレイクなどの英国ロマン主義詩人からマリーナ・ツヴェターエワのような20世紀ロシアの偉大な詩人などが見受けられる。しかしながら、彼女の洞察力には驚かされることも多い。例えば、作品『涙のワジ』を見てみると、彼女が一度も見たこともない風景についてここに細かく正確に表現されているのは見事である。(聖地パレスチナについての彼女の知識に関する私のその疑念は、一度日本の地へ足を運んだ時に消滅してしまった。滞在中、この乾燥の風景の中に誕生した三つの唯神教の特異性について非常に詳細な説明を彼女にした。その後、私がエルサレムへ帰国してからであるが、彼女は素敵なクリスマスカードを送ってくれた。)しかし、それにも負けず劣らず驚かされたことは、自然の風景から精神的な風景へと、彼女の視線があたかも容易に移されていたことである。また、訳がうまくいかなかった際の他の議論の例では、彼女は後の手紙の中で『涙のワジ』の最後に書かれた涙が、年老いたマリア・サンブラーノの疲れた顔の写真を見て溢れてきたものだったと教えてくれた。
 
 
彼女はシオランのお陰でマリア・サンブラーノに『邂逅』した。サンブラーノの作品に感銘を受けた彼女はスペイン語を勉強し、作品を原文で読めるまでになった。彼女は作品を余すところなく読んだだけではなく、サンブラーノの師であるオルテガ・イ・ガセットやハビエル・スビリ、そしてこの哲学者の友人であるキューバ人のホセ・ラサマ・リマなどの書までも読破したのを知っている。彼女は「razon poetica」、つまり詩的理性という概念の虜になってしまったに違いないと見ている。すみくらまりこは、世界というものを実用的または哲学的な理性で捉えることを拒絶している。彼女は物事を単なる時系列的な展開として説明するのとは大きく異なる手法で物事や世界を総体的に捉える。彼女は理路整然とした、矛盾のない真実を求めているのではない。マリア・サンブラーノの思想で彼女を惹きつけたのは「el absolute de los suenos」という考え方である。恐らくこれはガストン・バシュラールに関連するものでもあり、彼女がよく私に宛てた手紙で「le droit de rever」に関する彼の考え方について触れていたことからも分かる。バシュラールから彼女が学んだことは、詩歌というものが生きる場所は恐らく儚いリアリティの中に存在するのであり、それ以外の「リアリティ」ではないということだ。そうでないにしても、少なくともこれが彼女の作品を英語、ヘブライ語、ルーマニア語に真剣に訳し始める前まで私が信じ続けてきたものである。
 
 
この作業を続ける一方で、私は彼女が前述のような作品から借用する必要など実はなかったのだと分かった。彼女の心は、日本人の魂の求めるところに応じて何百年にもわたり形作られてきた独特の仏教観の影響を受けた、神道的価値観から生まれてきたとされるこのエトスの集合体に深く共鳴している。彼女の詩の読者は、これから彼女の表現を読む度にこの事実を認識し、そこにこのエトスの片鱗が暗号化されていることに気づくだろう。表面的に見ると、これらの詩は現代の西洋詩人の表現と日本の伝統的詩歌である俳句スタイルの融合と見ることができる。しかし、これは誤った結論である。『揚羽蝶』や『鳩』のような作品を注意深く読んでみると、この詩人の明朗な性格自体には歴史問題の処理の仕方に関して何も西洋的なものを感じない。『さ・が・ら』と『涙のワジ』に表現されたイメージは日本の墨絵を連想させる一方で、『桜へ』や『心薫る女』の表現に見られるように儚さと対峙する彼女の力強い姿勢もやはりその典型的な日本的スタンスを反映しているのだ。それどころか、そうではないなどと言うことなどできるのだろうか。すみくらまりこは13世紀にまで遡る日本国の古都に深いルーツを持つ家系の出だ。京都の郊外で私は中世に没したご先祖の隣に眠る彼女のお母様のお墓にお参りした。『朝露』の詩では、すみくらまりこはこのように書いて日本の魂を表現している。『一粒の露。葉先、その突端に辛うじて留まって、外には世界を移し、内には生の真髄を宿している』
すみくらまりこの詩作についてこれ以上、詳細にわたり説明を書き綴ることは今私がここまでに申し上げたようなこの本質である繊細さに相容れないだろう。本誌読者の方々にはご理解いただけるものと願うばかりである。
 
 
原文ルーマニア語
参考
 
 
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